モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」

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本の紹介です。

 

2015年に出て話題になった本だそうです。

専門は美学・現代アートですが、元々は生物学者を目指していた著者が、実際見えない人とのインタビューでの言葉を交えつつ、視覚障害者がどんなふうに世界を認識しているかを書いています。

著者には「自分とは異なる体を持った存在のことを、実感として感じてみたい」という願望が昔から強くあったそうです。

自分以外の生きもののあり方を理解することは、想像の中でその生きものに「変身」してみることなしにできないと言います。

美学と生物学をクロスさせることで、「普遍」と「個別」の中間あたりで体をとらえる視点が見えてくるのだとか。普遍性と個別性については私も日頃考えることがあるので、へーと思いました。ただ私は「美学」って何かわからない笑。生物学もわかってないと思うけど。

見えないということは目をつぶることではない。見えない…「ない」ということを欠如として捉えない。4本脚の椅子と3本脚の椅子の例えがわかりやすかったです。4本脚椅子の脚1本を取ると傾くけれど、元から3本脚の椅子は、そもそも脚の配置が4本脚とは違って、3本でちゃんとバランスを取って椅子として成立している。なるほどと思いました。3本が作る「全体」を感じること。異なるバランスで感じると世界は違って見え、その「意味」は違ってきます。

この「意味」というものについて書かれた本とも言えます。客観的でニュートラルな「情報」に対して「意味」は、その情報を受け取る側によって、その主観によって無数に変わる。「意味」は「情報」が具体的な文脈に置かれたときに生まれるものである。

と、まぁこんな感じて始まります。以下、心に留ったところ。

 

・決定的なのは「視点がないこと」。見えている人にとっては、空間や面には価値のヒエラルキーがあるけれど、見えない人にとっては「裏表」や「内と外」の感覚がないと言うか、等価であるということ。

・人間の感覚を5つに分けたり(五感)、見る働きを目の専売特許とみなすこと自体が間違っているのではないか。視覚とは多様で流動的なもの。

・「透明」という質を感じる例えが面白かったです。透明と言えばガラスが思い浮かびますが、透明という質は目だけがとらえるものではない。腕をつかむと骨を感じますよね。皮膚と骨の間には筋肉や血管や脂肪があるのに、奥にある骨を感じるのは「透明」の質を感じているのだと。

・暗闇体験の話。全く光がない暗闇では、あるはずの物理的空間と、自分の体の結びつきが不確かになり、自分が体を持った存在として空間の中にいるという実感が持てなくなる。自分が光によってとらえることのできない存在になったような感覚だったそうです。

私も昔、香川県のお寺で暗闇体験したことがあります。意図的に地下?の真っ暗闇の中を歩くアトラクション的なところがあって。闇=全く見えないってこういうことかと思いました。一歩も前に進めない。と言うか、前がどっちかわからない。壁に手を沿わせて歩きました。奥から声がして、そっちへ向かうと明るいところに到達。声はテープから流れるお経でした笑。

・見えない人が電車で立っているときや競技で自転車に乗るときの「重心」の話から、「状況を対話的にやりくりする」というところ。「対話」というと、人同士の言葉のやりとりしか浮ばない私には興味深かったです。

・見えない人の美術鑑賞の話。手で触る系の鑑賞でなく、絵画や映像を鑑賞するというもの。普通は黙って鑑賞する美術作品を、見える人と見えない人が言葉でやり取りしながら鑑賞するのだそうです。そこでは、見えないという障害がコミュニケーションを変えたり、人と人の関係を深める「触媒」になっていく。

そして、見える人と見えない人の関係は、特別視でもなく対等でもなく「揺れ動く関係」だと言うのです。行きつ戻りつする共同作業だからこそお互いの違いが生きてくる。

・ユーモアについて。障害そのものを笑いの対象にしていいのか。レトルトソースのパッケージが見えない人の話。食べて初めて味がわかる。食べたいソースだった時は当り~、そうでない時ははずれ~と楽しむそうです。

 

視能訓練士として、クリスチャンとして「見える見えない問題」を時々考えます。そんな私にとって、新しい気づきをもらえた本となりました。

 

 

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