モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

「影の現象学」

 私は「私の影」の写真をよく撮っているが、その影のことなのか。『人間にとって影とは不思議なものである。それは光のあるところに必ず存在する。私の影は常に私と共にあり、ときに大きく、ときに小さく、あるいは濃淡の度合いを変化させながら、まぎれもなく、私のものとして付き従って来る。』と最初に書いてあって、私が普段思っていることと同じだ。とすると、その影なのか。影について、私は以前「絶えず変わって同じ姿でないというところがかえって真実のように思える」と書いたが、実体の方も絶えず変化していると言える。心は絶えず揺れているのだから。
 光の方を向いていると自分の影は見えず、光を背にすると自分の影が見える。日中の陽が射す時のことです。人工的な光はあちこちにあって影もたくさんできてしまう。これはこれで面白いと思う。理論的には360度から光が当たると影は生じない。360度から光が当たるとは輝かしくも感じるが、影がないということは方向性が無いということでもあり、どこか不気味だ。本には『私の影は、大きい影の中ではまったくそれに包摂されて、姿を失ってしまう』とある。当り前のことで、これも私はよく思う。大きな影どころか、闇の中であれば影は完全に生まれない。夜は闇なのか。ここは難しい。休息としての夜、朝が来ることを待つ夜だと思うと、影とともに休息して待つとも言える。闇と言うと、影以前に実体も見えない。何も見えないのだから、有るのか無いのかもわからない。
 「光と影」ではなく「実体と影」の関係。影は光を遮った実体の輪郭なのだ。写真を撮っていて気にかけるのは陽の方向と角度だが、それと同じくらいに、どこに影が映っているのかということ。地面なのか壁なのか。そこが歪んでいると影も歪む。
 「ユングの影」から、夢やら神話やら昔話やらを用いて人間の「影」について論じている。出てくる神話や昔話が私は知らないものばかりでその理解が難しかったが、唯一?梶井基次郎の「Kの昇天」だけは読んでいてた。「影が出てくる~」と思っていたのだ。超短編です笑。影とは一体何なのか。無意識、もう一人の自分、抑圧された自分、自分の弱さや欠け…。「普遍的影」「王と道化」「トリックスター」など、とても興味深かった。
 自分の影なので、それは自分である。同時に、それは影であって自分と同じではない。矛盾するような、相反するような二つのもの。しかし、その二つは決して離れることはない。分裂する苦しみと悲しみを避けるため、闇に飲み込まれるのか。それとも、統合される方へページをめくるのか。それには自分自身で自分の影と向き合い、対話することが必要なのだ。
 この本の本筋ではないのだが、他にも今回心に留ったのは「秘密」についてだ。心理療法家はクライエントの秘密を聞くことになるが、そのタイミングが重要で、クライエントが治療者に秘密を持つことで自立していくのではないかというところ。この「秘密」と違うのはわかっているのだが、私は、新約聖書に出てくる会堂長のヤイロを思い出した。ちょうど最近、この箇所のメッセージを聞いたところだったのだ。死んだヤイロの娘をイエス様が生き返らせたわけだが、イエス様は「この出来事を誰にも話さないように命じた」。それは、単に奇跡として好奇心の対象にされないように、まずはヤイロ自身がこの出来事の本当の意味(死への復活、真の救い)を一人で静かに思い巡らし、そして、イエスさまと個別的に人格的に向き合って出会うためだった。これは、秘密にすると言うよりは、一人思い巡らすには黙することが必要ということなのだと思う。それとこれを結びつけるのか~と自分でも思うが、とにかく、向き合うこと、向き合う時というのは、「その中だけにあって」ということであり、自分の影に向き合うには一人黙することも重要なのだろう。そのうえで、打ち明けたり語り合ったりするのだろうと。何だかまとまらないが、そんなことが頭をよぎったのだった。
 遠藤周作さんが解説を書かれています。