
もし私の身近にいたら、私も頭では、道徳として差別したり拒否したりはいけなと思って接するだろうけれど、できれば関りたくないと思うと思う。同じ環境の下に育ったのだから、似たような感覚や思考や行動パターンがあるのではないかとどこかで思ってしまう。自分はよくても家族ぐるみで関わる、例えば娘も一緒に…となると躊躇してしまいそうだ。
主人公(強盗殺人犯の弟)が勤める会社社長の言葉に考えさせられる。「その人物の『人間性』ではなく『社会性』が重要だ」。理解あるパートナーと、隠さず逃げず過酷な差別に負けないで生きようとする弟に「甘えている」と言う。正々堂々と生きるという厳しい選択に対して「本当に苦渋の選択をしているのか」と問う。弟は、兄と絶縁して兄のことを隠して生きる決心をする。その旨を受け取った兄は、送り続けていた弟への手紙を止め、そして、被害者の家族へも欠かさず送っていた謝罪の手紙を終える決心をする。「手紙を送り続けていたのは自己満足のためだと気づいた。私は手紙を書くべきではなかった」。謝罪はあるべきか。謝罪することで更に傷つけてしまうのか。罪を忘れていない印として謝罪し続けるべきなのか。クリスチャンとして、神さまは赦してくれても、じゃあ、傷つけた相手の自分への赦しはどうなのだろうと思うことが多々ある。その責任は決して消えない。地上では「取り返しのつかない」ことはどうやってもどこまでも取り返しがつかない。
弟は最後に「いや、手紙があったからこそ今の自分がある」と言う。このあと弟はどうなっただろう。人生の最後になんと言うのだろうか。