モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

「スピリチュアルケアと教会」窪寺俊之

  
 今週カベナンター書店で本を購入したら、ことば社の「いのちのことば」4.5月号を下さった。パラパラ読んでいたら、窪寺俊之先生が書評を書いているのを発見。窪寺先生…思い起こせばコロナ前年(2019)に、改革派神学校の特別講義でお会いしたのだった。そして、2日間の講義内容が収録されている本を買ったのだ。私は2日間ある講義の2日目しか行けず、1日目は窪寺先生と神学生との間で議論になったと聞いていたので、それを知りたかったわけです。受講生(主に神学生)との質疑応答のやり取りも入っています。
 2年前に読んだはずだったが、見ると半分で止っていた(笑)。読んだところも忘れていたので最初から読み直したらとても良かったです。私自身のこの2年間があったことでより理解が深まった、というか、自分でどこがわかっていないかがよくわかったように思う。
 あ、1日目に高見順の話をしたと2日目に窪寺先生が言っていて、私は高見順の詩が好きなので、それがどんな話だったかも知りたかったのだ。ちなみに宣伝ですが、2年前にブログで高見順の「闘病日記」について書いています笑。この講義を聞いて読もうと思ったのでした。
 「本当の私」という言葉が何回か出てくるが、本当の私が本当に人間にわかるのだろうかと思った。議論は「スピリチュアルケアと宗教的ケア」についてだった。癒しと救いの問題。
 援助者の自己理解について、「弱さや心の痛みを理解しているから福音をしっかり伝えられるかというと、それはまた別問題です。重要なのは、私たちが本当に伝達者となっているかどうか、その準備ができているかどうかを、しっかり自分自身で意識していることです。」
 窪寺先生はアメリカの神学校で学ばれた後、アメリカの教団の牧師採用試験を受けますが、その申請にはメンタルが健康であるという証明書が必要で、臨床心理士の診断を受けに行ったそうです。そんなこんなの講義の後、私は質問しました。「自分を知るということはとても大事なことだが、クリスチャンは意外にその作業ができていないのでないか。クリスチャンは(少なくとも)受洗の時には自分の罪を悔い改めているはずだが、そこで自分を知ったつもりになっているのではないか。」みたいな質問をしました。このやり取りも載っていますが、ニュアンスが違って書かれているのが残念です。この質問に関して窪寺先生が神学校の先生何人かに振ったのですが、最後に袴田先生が「神様に本当に出会った時、人は本当に自分を知ることができる」と言われて、私はそれが一番腑に落ちたのだった。自分を知るという作業は人間にとって非常に厳しいことだ。
 最後にある吉田校長の「私たちの改革派神学のすべては牧会のためにある」という言葉も心に留る。
 2日目の昼休みにゆっくり窪寺先生とお話しする時間がありました。名刺もいただいて今も大事にしています。午前の講義の最後に先生が皆に質問をして、この昼休みに私がそれに答えたことを覚えています。私の答えは「処分したい物(残したくない物)、家族などに残したい物、棺に入れたい物を聞く」というものでした。「良い答えですね」と言って下さったのですが、質問が何だったか思い出せない笑。死の近づいている方に、過去・現在・未来についての想いを「物」を通して聞く…みたいなことだったかなぁ。この質問は本に載っておらず。
 窪寺先生、お元気でいて下さい。