モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

「死の淵より」

 窪寺俊之先生の本のことでしばらくぶりに高見順の詩を読みたくなった。この詩集を買うだけ買って読んでいなかったことを思い出したのだ。私は学生時代、学校の図書館にあった高見順全集で彼の詩を知り、好きな作品をノートに書き留めたりしていたが、そのまま月日が流れ、随分経ってから「現代詩文庫・高見順詩集」(思潮社)で再び読むことになった。詩集の寄せ集め本だ。今はひとつひとつの詩集を単体で手に入れるのは難しいのだと思う。寄せ集めの方にもある程度入っているのでそのままにしていた「死の淵より」(日本図書センター)。読んでよかった。
 高見順につきまとう「悲しみ」は非摘出子として生まれ育ったことが大きい。それなのに、結局自分も妻以外の女性との間に子どもを持つことになった。「悪いとわかっていて犯した悪は、もっとも悪質な悪だ。」(闘病日記)と書いている。自分のことをよく知りながらも、そうやって生きてしまうしかない人間というものを彼はわかっていたと思う。
 キリスト教の本をたくさん知り、内村鑑三矢内原忠雄の本などもかなり読み込んでいた。聖書そのものも読んでいたのだろう。東京神学大学で教鞭をとった井上良雄氏は高校時代の友人で、病室にも訪れ対話している。
 高見順はキリストの十字架については心動かされるが、復活というところがわからない、というようなことを書いている。人に傷つけられ、そして人を傷つけて生きてきたことの重荷を常に感じていた彼は、死へ向かう癌の苦しみの中で、それらを十字架に架けたいという思いはあっても、そのあとの最も重要な「復活」にまでは委ねきれなかったのだろう。窪寺先生はこの理由が彼の生い立ちにあると言っている。このこと自体が本当に悲しいと思う。

 自分自身を生きるのは自分でしかない。人間は誰かの代わりに生きることはできないし、誰かに代って生きてもらうこともできない。当然のことだ。その当然のことを、抗いつつも受け入れ、近づく死を受けとめようとしているが、悲しみは増すばかりだったのかもしれない。「死」へ心を明け渡す準備に駆られているかのようだ。「死」ではなく、生きること死ぬことにおいて必要なことは全て代わりに成し遂げて下さっている存在へ心を明け渡すことができていたら…。

 ちなみに私が好きな作品は「死の淵より」ではなく、詩集「わが埋葬」にあります(笑)。このどっちを選ぶかなら「わが埋葬」が全編収録されている「現代詩文庫」の方を勧めます。