モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

ケーテ・コルヴィッツ「マリアとエリサベト」①

 木下裕也先生(改革派岐阜加納教会牧師)の詩集「落ちかかるもの」を読んでいたら、ケーテ・コルヴィッツの銅版画について書かれているものがあり、ネット上でその作品を調べるうちに買ってしまった。ヤフオクで300円だった。

 ページをめくっていると、終わりへさしかかったところに「マリアとエリザベス」があった。私は聖書の中で、ルカによる福音書1:55『マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。』というところが昔から大好きなのだ。
 
 この三ヶ月のマリアとエリサベトの暮らしはどんなふうだったろう。想像するだけであまりにうれしくなってしまう。この二人は、二人ゆえに、二人にしか分かり合えない特別なものがあったはずだ。
 結婚する前に身ごもったマリア。まだ十代半ばでどれだけ不安だったろう。それを知らせたのは天使ガブリエルだが、「どうして結婚していない私にそんなことがあり得るのでしょうか」と聞くマリアに、ガブリエルは「親類のエリサベトは不妊だったのに高齢で身ごもってもう六か月だ」と言う。そして、「神にできないことは何一つない」と告げるのだった。
 おそらくエリサベトの年齢はマリアのおばあさん、それ以上だったかもしれない。マリアの妊娠の前に、既にあり得ない妊娠をしているエリサベトがいたのだ。マリアはエリサベトに会うために急いでユダの町に行ったと書いてある。どれだけ会いたかったろう。自分のことをただ一人、最も、理解できるのはエリサベトだと思ったのだろう。婚約者ヨセフも受けとめてくれたが、そして、それはすごいことだけれども、でも、あり得ない妊娠でお腹が大きくなり、お腹の子が動き、やがて産みの苦しみを味わうことを理解できるのは、同じようにあり得ない妊娠をしているエリサベトなのだ。
 マリアはエリサベトに挨拶したと書いてある。ここで妊娠のことを告げたのかはわからない。マリアの挨拶の声をエリサベトが聞いたときにお腹の子が喜んで踊った、とある。そして、「主のお母さまが私のところに来て下さるとは何ということでしょう。主がおっしゃったことを実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とエリサベトはマリアに言う。『主』はマリアのお腹にいるのに、「主がおっしゃったことを信じる方(=マリア)」と言っている。創造主なる神様と、これから産まれる救い主イエス様が一体なのがエリサベトにはわかっていたのだろうか。このあとに「マリアの賛歌」が続く。マリアがあり得ないことを信じて受けとめたのは、エリサベトが先だって身ごもっていたことが大きいと思う。
 エリサベトのお腹の子は、のちにイエス様に洗礼を授ける「洗礼者ヨハネ」である。イエス様に先立って、その道を整え備えるた者。

 さて、ケーテはこの時「マリアとエリサベト」をどんな気持ちでデッサンしたのだろうか。
※次回はこちら
ケーテ・コルヴィッツ「マリアとエリサベト」② - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)