モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

レンブラント「放蕩息子の帰還」⑥最終回

1668年ごろ制作 エルミタージュ美術館

 お待たせしました。と言っても誰も覚えていないでしょう笑。⑤から1年半、①からだとなんと2年経っています。あくまで視能訓練士ネタ中心ですので、レンブラントファン、ナウエンファンの方は読むのに注意して下さい。腹立たしくなっても責任は持てません。
 最初に結論から述べます。
レンブラントは「間歇性外斜視」だった。「瞳孔不同」もあったかも。
・放蕩息子の父を外斜視に描いたのはレンブラント自身を映している。
レンブラントの描く父の左右の手の違いは(骨格・筋肉)体の病気や障がいのため?
・「両手を肩に置いている」のではなく「右手は背中にあって息子を抱き寄せている」。父はこのまま身を屈めて抱きしめるのではないか。
・「見えない人」とは「待ち続ける人」である。

以下、これまで書いた概要です。
①聖書の「放蕩息子の父」は視力が良いのに(少なくとも片目1.5はありそう)レンブラントは視力の弱い父として描いた。
レンブラントの描く父は「右眼廃用性外斜視」モゴロー説。
③斜視について。
④「神の子論」っていうのでしょうか、ほんのちょっと信仰的な話。&レンブラントは「盲目」を好んで描いた。
⑤ナウエンは「半盲」と書いているが「眼科的半盲」とは。
興味のある方は最後にリンクを貼ってありますのでぜひご覧ください。

 ネット上にあるレンブラント(1606-1669)の自画像を集めてみました。両目真っ直ぐで斜視がないように見えるものが多いですが、明らかに外斜視に見えるもの、また、微妙だが外斜視に見えるものがあります。1枚だけ瞳孔不同に見えるものもありました。私は画家が自画像を描くときの気持ちはわかりませんが、レンブラント、そして私の好きなケーテ・コルヴィッツはたくさんの自画像を残していて、それは自分自身を見つめるものであり美化するようなものではないと感じます。そうならばレンブラントの自画像が外斜視なのは本当の姿だったと思われ、そして、大体は斜視ではないが時々外斜視になるのは「間歇性外斜視」だと考えました。瞳孔不同についてはわかりません。脳の病変であれば元気で画家活動はできなかったでしょうから、これについては生活に困ることはない程度の眼の疾患かなぁと。

 レンブランは、聖書の外典「トビト記」のトビトや(※)、シメオンを盲目の老人として描いたことなどから(聖書には盲目だとは書かれていない④参照)、こだわりを持って「盲目の老人」を描いたと言われ、特に晩年については、そこには繁栄から転落した人生の闇と、そこから見える光が?表れているのかなぁと思いますが、若い頃から自分の「目」について気になっていたということもあるのかもしれないと思いました。当時、廃用性外斜視の人は今よりたくさんいたと思います。眼疾患の治療は難しかったでしょうから。女優の樹木希林さんが網膜剥離で左眼が見えなくなってから外斜視になっていましたね、廃用性外斜視の状態です。なお、網膜剥離は現在では早期に手術すれば回復の見込める疾患です。

トビト

 以下、ネット上で集めたレンブラントの自画像です。生涯で100枚ほど描いたそうです。これはその半分くらいでしょうか。年代や所蔵する美術館の記載をしておらずわかりにくい点はお許し下さい。部分的に切り取ってあるものや、パソコン上の色合い調整をしているものも含まれていると思います。それにしてもたくさん描いていますね。よく見ると外斜視っぽいのがちらほらあります。





1635年 「酒場のレンブラントとサスキア」

 レンブラントは晩年に近づく頃の自画像も斜視でないものが多いので、片目の視力が特別低下してはいなかったと思いますが、間歇性外斜視の人は歳を取るにつれ斜視になる時間が増える傾向にあるのでレンブラントもそれを感じていたかもしれません。放蕩息子の父を外斜視として描いたのは自身のことを映し出しているのかもしれないと思いました。当時の自画像は鏡を見ながら描いたのでしょうか。レンブラントは左右どちらの眼が外に逸れやすかったのか、自画像を素直に見ると右眼が多かったのでしょう。そして、放蕩息子の父も右眼が外斜視になっています。
 大発見をしたかと思いましたが笑、ネット上を調べるとレンブラントが外斜視だったのではないかという説はありました。レオナルドダヴィンチにもその説があるようです。斜視だから立体視感覚が鈍かったように書いてあるのもありましたが、間歇性外斜視では斜視でないときは(斜位)両目の視線が合って両眼視しているので立体視機能は獲得しています。ただ、絵を描くために遠くを見るとき、そして、キャンバスを見るときに外斜視になっていれば、その時に立体視はしていないので、それがどう絵に影響したかは私にはわかりません。生まれつきの内斜視のようにそもそも立体視機能を獲得していない画家の絵が立体視機能を獲得している画家と違うのか、そんな研究もあるのかもしれません。興味深いとは思います。ちなみに、両眼視差から起こる立体視感覚はなくても、片眼での「奥行知覚」から立体感覚のようなものを得ることは可能で、幼い時から片目で生活している人は日常生活に不自由は感じていないようです。一方、大人になって急に片目になると階段を踏み外すなど注意が必要になります。

アムステルダムの織物商組合の見本調査官たち 1661年

Family Portrait 1668年

 上の2枚は自画像ではない絵で斜視の人のが描かれているものです。たまたま見つけました。1枚目は右眼が上斜視に見えます。
 前回⑤の最後に放蕩息子の父は半盲だったのか、レンブラントはどうだったのかと書きましたが、視力と視野については検査していないのでわかりません笑。ただ、眼位(視線の位置)については放蕩息子の父は明らかに「外斜視」であり、レンブラントも「間歇性外斜視」だったのは濃厚だと思います。

 さて、目だけでなく、と言うより、目のことより放蕩息子の父の左右の手の違いを指摘する声が昔からあるようです。ナウエンもそう書いています。右手は男性的で左手は女性的だと。父は家長だけでなく、父でもあり母なのだと。私は左手ががっしりしているのに右手が細いのは、左手の方をよく使っているからではないかと思いました。何らかの原因で左半身と右半身の力の入り具合が違うのではないか。なんとなくですが、左足が軸足になっているように見える気もします。しかし、片麻痺に見られる硬直はありません。これに関しては結局わかりませんでした。そうではないとして、左手は息子の右肩にぐっと体重をかけているように見えます。だから左手は手のひらと指との境目が少し曲がっている。力が入っているので骨や筋が目立つ。対して右手は肩ではなく背中にそっと触れています。よく帰ってきたね、もう何も心配いらないよ、と、優しく背中をトントンしてさすっているように感じます。このあと父は右手側から身を屈めて息子を抱きしめたのではないか。私にはそう思えてきたのです。

 最後に、前回⑤までを書くにあたってナウエンのこの本をけっこう何度も読み返したつもりですが、今回、最後のところが新しく心に留まりました。レンブラントはなぜ父を「盲目の人」として描いたのか。全くの盲目とは言えないし、半盲という言葉も適しているかはわかりませんが、とにかく、視力の弱くなった老人として描かれています。ナウエンは、私は何もかも見たい、何もかも知りたい、息子が遠い国にいるなら行って一緒にいたい、息子が帰郷するまで待ちたくない、と言います。「見たい、見えたい」のだと言うのです。しかし、それは自由に動き回ることを求めることであり、それでは家で待ち続けることはできないのだと。それは父の姿ではない。父は盲目であり何もできない。父は何も求めない。孤独で弱り切っている。ただ、ひたすら息子の帰りを待っている。息子が帰ってきた時のために家で待ち続ける。息子が生きて一緒にいる、それだけが望みであり喜びなのです。そして、息子(子ども)は父の跡継ぎなのです。

※トビト記」は旧約聖書外典です。私は「外典」って読んではいけないものと誤解していたという笑。外典は旧約時代と新約時代の間、中間時代の出来事や信仰を知るために役立つものです。「トビト記」は捕囚されたトビトの物語で、途中トビトが失明して、そして回復する場面があります。トビトをモチーフにする画家も多かったようですが、レンブラントは若い頃からトビトを数回描いています。
レンブラント「放蕩息子の帰還」⑤ - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)
レンブラント「放蕩息子の帰還」④ - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)
レンブラント「放蕩息子の帰還」③ - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)
レンブラント「放蕩息子の帰還」② - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)
レンブラント「放蕩息子の帰還」① - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)