モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

レンブラント「放蕩息子の帰還」④

 レンブラントの「放蕩息子の帰還」の続きです。このレンブラントの絵が表紙になっているヘンリ・ナウエンの「放蕩息子の帰郷」。かれこれ15年くらい前に教会の婦人会で読みました。ヘンリ・ナウエンはカトリック司祭で、大学でも教え、晩年は知的ハンディを負った人達と生活を共にしていました。キリスト教信仰の霊性についてたくさんの文章を書いていて世界的に有名です。

 私は婦人会で読み進めた最後の方で当てられて感想を言ったのですが、その内容を今でも覚えています。なので、この本のことをある程度わかっているつもりだったのですが、今回見直してみて全然わかってなかった笑。そもそも、ヘンリ・ナウエンはレンブラントの絵のポスターを見たことをきっかけに、この絵から思い巡らしたことを書いているのでした。それもわかっていなかった、ハハ…。なんかコラージュに似てるなぁと思いました。それにしてもポスターを見てから3年後にエルミタージュ美術館で4時間この絵の前にいたとは。描かれている人物の様子、光の具合、細かくひとつひとつ見て思い巡らしているのです。すごっ。

 このたとえ話は、一般的には放蕩の限りを尽くした弟息子を無条件に受けとめて、帰ってきたことを手放しで喜ぶお父さんが神様で、神様はそういうお方ですよというものだと思います。弟は私達。じゃあ、兄は誰?ってことですが、この兄も私達の姿だと。信仰歴が長くなってくると、この兄の方に自分を重ねる人が増えてくるのかなと思います。ヘンリ・ナウエンはここで終わらず、真の弟、真の兄はイエス様ご自身で、そして、「父になること」に私達は召されているのだと、そこまでがこのたとえ話なのだと。え~って思いますが、イエス様を信じる者は「神の子」とされるわけで、息子(娘)は父の相続人であり跡継ぎです。父の家にいるということは、父の生き方を引受け、受け継ぎ、その似姿に変えられるということ。…という展開で書かれていると思います。そして、父になるという本当の意味は…。続きは本をお読み下さい笑。
 私が感想で言ったのは(当時もちゃんと読んでなかったが…すみません)、「『父になる』とは威張ったような偉そうな存在になるということではなく、父になるとは『完全に謙遜』になるということだ」でした。なので、レンブラントが描く父の老いて弱々しい姿が私にもわかる気がしたのだと思います。

 ヘンリ・ナウエンはレンブラントについても思い巡らしています。「放蕩息子の帰還」はレンブラント晩年の作品です。ヘンリ・ナウエンは未完に終わった遺作の「シメオンの祝福」も紹介しているのですが(写真4枚目)、レンブラントは若い頃に同じテーマで2回描いており、私は若い頃に描いた「シメオン」のひとつを(写真3枚目)神戸であった美術展で見ました。実は私は聖書に出てくる人物の中でシメオンが好きなので感激したのを覚えています。このシメオン、聖書には書かれていませんが(ですよね?)、レンブラントは遺作の中で盲目の老人として描いています(だそうで、確かに視力の弱そうな目に見えます)。同じ頃描かれた「放蕩息子の帰還」のお父さんの目もよく見えていないように描かれているのです。ヘンリ・ナウエンは「父」が「半盲の老人として描かれている」と書いていました。このお父さんが目の悪い老人として描かれているというのは既に知られていたのですね。ただ、視力視能訓練士としては笑、「半盲」という言葉は違うなぁと思ってしまいました。

半盲について次回へ続く。
レンブラント「放蕩息子の帰還」⑤ - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)
①~③は以下からどうぞ。
レンブラント「放蕩息子の帰還」③ - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)
レンブラント「放蕩息子の帰還」② - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)
レンブラント「放蕩息子の帰還」① - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)