モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

アブラハムの生涯

 実家にあった本。教会学校でちょうどアブラハムのお話をしていることもあって。いつの頃からか教会学校のお話の準備していて迷うというか、これでいいのか…と思ってしまうこと。聖書物語の要所要所の有名なお話を飛び飛びでいく流れで、私の子どもの頃もそうだったし、ざっくり聖書全体の物語を繰り返し聞いていくことが子ども時代には大切だし、それでいいと思うのですが、今回も、6月に「バベルの塔」のところが当番で、「ノアの箱舟」から「バベルの塔」にいくのですが、「間の話」があるわけですよね。で、2ヶ月間新約になって、8月に旧約に戻って(うちで使っているテキストの場合)、いきなり「アブラハムという人がいました」でいいのか。最近、スッキリ一話完結に話すのは無理だなぁと思うようになりました。たまたま「バベルの塔」と「アブラハムの出発」のところが当番だったので、2ヶ月空くと…まぁ私の場合1週間でも忘れますが笑、忘れてもいいし、わかんなくてもいいから、もちろんできるだけわかりやすく話す努力は大事だけれど、大人だって、あれだけの人が一人の先生の話を聞いて、それぞれ理解力も体調も事情も違うのだから、どれだけわかっているかはめちゃくちゃ振り幅あると思うのですよね。わかるように配慮して話すのは大事。でも、子どもだから、わかんないだろうから、だから省くとか、話さないでおくとか、それも違うような。と、いつもぐだぐだになってます(笑)。ひとつひとつ別々じゃなくて繋がっていること、全体なんだって感じ、伝えたいなぁと。無理に1回で終わろうとしなくてもいいかなぁと。で、意外にじっと見入って聞いてくれてたりする。逆に、ああ、これは全く耳に入ってないな…って、いうか、入るように話せなかった日も多々あります。顔見たらわかりますね。ひゃ~ってなるけど、もうそこは、準備したものを最後までやるしかない。耳に届くように話せてないのがわかりながら話すのって、ほんときついです。そして、ごめーん、って感じ。

 と、これを読んで、アブラハムの物語はお父さんのテラからなんだなぁと思いました。森有正さんの本は、以前エッセイ集の1冊を読んだだけで、はっきり言ってわかんなかった。でも、孤独についてとか、個と普遍性のこととか、わからないけど慰められる言葉がいっぱいあった、と思う。
 「内面の促し」という言葉が頻繁に出てくる。
・第一の出発が第二の決定的な出発を引き起こすことになる…。・本当の人間が出発する時はどうしても一人で出発しなければならない。・一生全体が出発だったのだ。・本当の内的世界への、人間への、自由への出発だった。
 そうそう、「影」が出てきました。ユングと関係あるのかしら。
・一つの世界があって…、しかしその世界とは異質の、別の、今はまだ無い、しかしやがて来るかもしれない、その世界の影が私どもの中に射してくる。これが私の言う内面の促しであります。私どもの中にその別の世界の影がだんだん濃くなっていく。・生涯の初めがなく、また生命の終わりがないということ、これはアブラハムの内面的な歩みの中に、…永遠が影を落としている、
 今回「責任」という言葉が心に留った。
・水と油のような二つの世界、霊の世界と肉の世界、この二つをアブラハムの生ける人格だけが結びつけて支えている。責任ということは何だ、…霊としての私どもと肉としての私どもと、この二つを私どもの中において一つに結びつけてしっかり握って離さない、それが私は責任ということの一番深い意味だと思います。
 14章の王たちと戦ってロトを救出してメルキゼデクから祝福されるところ、こんなところあったっけ(スミマセン)と思うのに、ここをすごく深く洞察している。
・この二つのアブラハム、…二つの違った責任の尽くし方を持っているアブラハム、これが一人のアブラハムということ。
・どんな生涯でも…本当にはわからないものが入っています。・自分の羅針盤に頼り抜いたということです。…進路を誤っているかもしれない。けれどもその羅針盤に頼る以外に何もすることができない。…言葉を言い換えて言えば、忍耐ということです。忍耐というのは私どもが働きながら待つということです。
 5回の講演はお話で、6回目がオルガン演奏会だったのですね。森有正さんのバッハはどんな音だったのでしょうか。聞いてみたかったです。