モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

「見える」ということ その一

2021年に「『見える』ということ」というタイトルで4回投稿しました。中途半端に終わっていたのが気になっていたのですが、今年になってあるところで書き直す機会がありました。そこでの文章を3回に分けて掲載します。
写真はこの夏の「ベランダの日々草」です。
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 私は視能訓練士という職業に就いている。知っている人は少ないと思うが、歴とした国家資格で眼科検査のスペシャリストだ。「訓練」とあるのは、斜視・弱視(特に子ども)の検査や訓練指導を行うという意味だが、この分野は眼科のごく一部で、実際は視力検査や視野検査、白内障術前検査などの一般検査が主な仕事である。
 目はフィルムカメラに例えられることが多い。角膜や水晶体はカメラで言えばレンズに当たる。目の中身は硝子体と言われるゼリー状のもので、角膜・水晶体・硝子体は透明である。透明なので外から入ってくる光が通るわけだ。どこかで光が遮られると見えないということになる。「白内障」は水晶体が濁ることで見えにくくなる病気だ。そして、光が到達するのがカメラのフィルムに当たる網膜になる。ここまで光が順調に通ってきても、網膜に支障があれば見えない。フィルムが破れていたり皺があったりするときれいに写真が写らないのと同じだ。
 そして、網膜に映った像は電気信号に変えられ、視神経を通って脳に伝わる。このあたりはデジカメの方がイメージに合うかもしれない。視神経が障がいされても見えないことになる。「眼圧」という言葉をよく聞くと思うが、柔らかい目の球状を保つための内側からの圧力のことで、私は「目の硬さです」と患者さんに説明している。眼圧が高くなって視神経を傷めるのが「緑内障」である。人によって視神経の強さは違い、眼圧の数値だけで良い悪いは決めらないため、そこのところはしっかり医師に聞いていただきたい。
 その後、視神経の束が脳の中を通っていくのだが、脳腫瘍などでそこが圧迫されても見えなくなる。そして、映像の信号は脳に到達するが、信号を受けとめる脳に病気があっても見えない。脳梗塞脳出血で見えなくなることもあるのだ。
 そして、最後は「心」だ。光が通る目も、視神経の通り道も、信号を受けとめる脳も、どこにも病気はないのに、「見えない」ことがある。心因性視力障害と呼ばれるものだ。小学生や中学生に多く、学校健診の時期、毎年何人もそういう子どもの検査をする。精神的なストレスで見えることが上手く心に繋がらない状態と言えるだろうか。たいてい両目に起ることが多いが片目だけという患者さんもいた。実際本当に片目をケガして、それは治っているのにそちらの目の視力が出ない。スポーツ系の部活をしていた高校生で、ケガも部活中の出来事だったが、どうも、その部活自体が心の負担になっているようだった。すぐ目の前で、とても辛い事故を見てしまった子どもが、遠くは見えるのに近くが見えなくなってしまったという話も聞いたことがある。
 「見ている」ことを心が受けとめることができて「見える」ことが完成する。目だけ、脳だけ、心だけ、ではなく、全体が機能して「見える」ことになるのだ。「見える」こととは「全体的なこと」だと私は思っている。
 さて、視能訓練士にとって白内障術後の視力検査は日常的で、その時、皆さんの色々な感想を聞く。新聞が読めるようになった、免許の更新ができた、眉がきれいに描けるようになった、など。そして一方では、と言うより、それと共にこんな声も多い。「掃除してるつもりが埃だらけやった」「おかしな色の組み合わせで服を着てた」、更にかなりの女性のが「手も顔もこんなに皺だらけやったんか」と言う。頬にあるシミを「昨日から急にできて、手術のせいじゃないでしょうか。」と言う人もいた。目の近くだったのでそう思ったのだろう。診察室で医師から「いや…、前からあったのが見えるようになっただけですよ。」と言われ、恥ずかしそうにしていた。極めつけは、あるおじいさんが言ったひとことだ。「娘があんなに年取ってたとは思わんかった。」
 人は見えないと困るが、全てが明るみになっても戸惑う。闇を怖がりながら、しかし、全てを照らす光も嫌う存在なのかもしれない。