モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

「見える」ということ その三

 光の通り道が守られ、それを心が受けとめ、そして「言い表す」ことで「見える」ことが完成するのではないか。そうは言ったものの、例えば赤ちゃんは言い表せないし、病気や障がいで言い表すことが苦手だったり難しかったりする人もいる。前回話したように、親からのプレッシャーなど、様々な事情を抱えるがゆえに言い表せない人もいる。では、その人たちは見えるとも見えないともわからないまま、未完成に終わるのだろうか。いや、そんなことはないと思うのだ。言い表さなくても、見えるか見えないかはわかる。それは、その人の姿、行動だ。その人の行動を見ればわかるのだ。
 認知症や知的障がいの人が家族に連れられて受診することがある。片眼の見え方が悪くても、他眼が良ければ生活に大きくは影響しないが、両眼見えなくなるとかなり困ったことになる。家族が「どうも最近見えていないようだ」と言う。ご飯の時テーブルに並んだ料理がわかっていない、楽しみにしていたテレビを見なくなった、など。その人が言葉では言えなくても、その様子を見ているとわかるのだ。
 逆に、本人は「見えない」と言っても、本当は見えていることがある。わかりやすいのは詐盲だろう。今まで私が経験した詐盲の人というのは、保険金を得るためにはかなり悪い視力でないといけないのだろうか、大きな輪っかが目の前でないとわからない、手を振っていることしかわからない…など、明らかに悪い視力の返答をする人が多かった。他覚的な検査や医師の診察所見と視力値が合わないことで詐盲の疑いがかかるのだが、その前に、「この人怪しいぞ」と気づく時がある。視力がその人の行動と合わないのだ。両眼とも見えないと言った場合がわかりやすい。まずは視線が合うかどうか。俳優がドラマで視覚障がいを持つ人を演じているのを見ると、話し相手から視線を逸らしている。そうすることで見えない人のように見える。実際、本当に見えない人とばっちり視線が合うことはない。そして、動きだ。見えない人でも、特に幼い時から見えない人は経験によって上手に歩いたり物を掴んだりするが、それでも自分の家ではない病院で検査機器に座ったり、顔を台に乗せたりする時は手で探りながら、時にぶつかりそうになりながら検査を受けている。ところが詐盲の人は、待合室で名前を呼んだ時に一瞬視線が合ってしまう、あれ?いま合ったよね…と。検査機器に誘導される時も、ぶつからないように上手く避けているじゃないか。何かおかしい。そうなのだ。見える人が見えない人の振りをするのは相当難しいことなのだ。
 この程度の白内障ならもっと視力が出てもいいはず…というようなことは日常的で、そういう微妙な視力の巾について見極めるのは難しいのだが、生きるうえで最低限必要な見え方をしているかどうかは、その人の姿、その人の行動を見ればわかるのだと思う。そして、それがわかるのは、私自身が見えているからだ。「見える」人には「見えている人」がわかるのだ。
 その人が見ていることと、その人が見えていると思っていることが合致すること、そして、それを言い表すことができるのはとても大事なことだと思う。それは人の健康な姿だ。赤ちゃんは成長すれば自分で言い表すことができるだろう。病気や障がいなどで言葉を使うのが難しい人は、家族や友達が代わりに言い表すことができるだろう。事情があって言い表せない人がいるとすれば、その事情を察した人がその人の行動からその人の見え方を判断することができるだろう。
 入ってきた光を言い表すことができるまで、どの部分においても人間には完全というものはなく、どこまで本当に見えているかはわからないのかもしれない。どこまで本当に見えているのか。それがわかるのは、わかっているのは、完全に全てを見ている、そういう存在のものしかないのだと思うのだった。
『その一』『その二』は↓↓↓
「見える」ということ その一 - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)
「見える」ということ その二 - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)