モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

「見える」ということ その二

 前回、光の通り道が守られ、最後に「見ている」ことを心で受けとめることができて「見える」ことが完成するのではないかと話した。では、その人が「見えているか見えていないか」はどうやってわかるのだろうか。視力検査でわかるじゃないか?そう思う人は多いだろう。確かに、どのくらい見えているかの指標として視力検査は一番に挙げられると思う。眼科でも必ずと言っていいほど行われ、私も視能訓練士として最も多くやってきた検査だ。眼科を受診したことがなくても健康診断など、人生で視力検査を経験する人が大半であろう。
 さて、ここで視力検査のことを思い出していただきたい。「輪っかの切れている方向を教えてください」、または「平仮名を読んでください」と検査員に指示される。健康診断では器械のボタンを操作して、輪っか(ランドルト環)の切れ目を答えることも多いが、口で答えるにしろ、手で操作するにしろ、その人の「自覚応答」で結果を得る検査なのがわかる。つまり、患者が答えてくれないとできないわけだ。ちなみに、上下は良くても左右のこんがらがる人には、さりげなく「指で答えてもらってもいいですよ」と伝える。
 ここで重要になってくるのは検査員と患者とのコミュニケーションである。まずは、そもそも検査のやり方自体が患者に伝わっているかどうか。高齢の方には難聴者も多く、こちらの言っていることが聞こえないでは応答も得られるはずがない。また、患者が検査方法や応答の仕方を理解していたとしても、例えば緊張して上手く答えられないことがある。初めて視力検査を経験する子どもによく起きる。私が新人の頃、検査をした小学低学年の子どもの視力が出ないので先輩に交代したら、すんなり出てしまった…ことがある。大人でも検査員が代るだけで出なかった視力が出ることは珍しくない。認知症の方には、輪っかは難しくても平仮名だと答えられることがあるなど、その人の答えやすい方法をあれこれとやってみる。
 他にもこんなことがあった。学校健診でひっかかった小学高学年の子どもだった。子どもの場合、親から離れても大丈夫であれば、私はできるだけ親には待合室で待ってもらう。子どもの不安が強い場合は、もちろん一緒にいてもらうが、一人で大丈夫なのであれば、親と一緒でない方がちゃんと検査できることが多いからだ。子どもは親がいると、どうしても親の存在に良くも悪くも影響を受ける。甘え過ぎても、怖がりすぎてもいけない。その高学年の子どもの時も、親には待合室でいてもらうように言ったのだが「いや、見ていたいので」と言う。仕方なく検査室の後ろの椅子に座ってもらった。すると、その子どもが答えないのだ。親からのプレッシャーで。単に近視の子どもだったが、見えづらそうな目をしていたので「わからないならわからないって言っていいからね」と言っても答えない、答えられない。「わかりません」と言おうものなら、「え!これが見えないの!なんで!だからゲームのし過ぎなんだよ!」…という親の心の声が後ろから聞こえるわけだ。私にはその子どもの表情からそれがすぐにわかった。こうなってくると、見えるものまで答えられなくなってしまう。前回話した心因性視力障害と似ているように思うかもしれないが、心因性の場合、そういう検査環境の問題は取り除いたうえで、そして器質的疾患が全て否定されて初めて「心因性」と診断される。本人は本当に見えていないという点も違う。
 更には、ごくたまにだが「詐盲」の患者に出会うことがある。保険金目的などで見えるのに「見えない」ふりをするのだ。完全なる仮病なのだが「わかりません」と言われれば、視力検査上視力はそこまでとなる。
 私はこういった経験を重ねるうちに、「見える」こととは心で受けとめることができた後、それを「言い表す」ことで本当に完成するのではないかと思い始めたのだった。
『その一』は↓↓↓
「見える」ということ その一 - モゴローなんちゃって日記 (hatenablog.com)