モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

何を読んでいるのか

 この影の写真を撮って、そして、短歌を考えた時に思い浮かべたのは、田村英典先生(元淀川キリスト教病院チャプレン、現改革派岡山西教会牧師)のお話です。8年くらい前だったか、私の通う教会の礼拝説教に来て下さって、そのまま午後の会の講師もして下さいました。ちょうど私がその会の司会で、讃美歌と聖句を選んだのですが、私はその日教会学校で話した箇所「使途言行録8:26-40」を読みました。『フィリポとエチオピアの高官』のところです。そして、この箇所に感じたことを短く言いました。すると田村先生が、急遽その箇所についてもお話し下さったのです。
 エチオピアの高官は『苦難の僕』と言われる箇所を読んでいたわけですが、「どうしてこの時、エチオピアの高官はこの箇所を読んでいたのか。そこに彼の悲しみや苦しみがあった。それをフィリポは受け止めたうえで説いたではないか。」と。私はこの話が忘れられません。田村先生はチャプレン時代に死を前にした人へ関わる務めを多くされてきましたが、その方たちが枕元に置いてある本を見て、その方の言葉にならない言葉を感じたと言われていました。
 私の友達は重い病気で入院した時(今は元気です)、その友達は音楽好きでいつもは色んなジャンルの音楽を楽しんでいますが、その時は好きな音楽を聞くこともできずにいたそうです。ただその中で、唯一聞くことのできた曲があって、それは「血しおしたたる」だったと。その時の友達の言葉にならない苦しみを僅かですが知ったように思いました。
 今は、本も音楽もスマホタブレットで読んだり聞いたりするので、その人が手に持ったり、枕元に置いてあったりする本やCDでその人の言葉を感じる…ということはなくなっていくのでしょうか。

 ということで、私の影が読んでいる影の本は…と言うと笑、「詩作案内」。1972年の本です。詩の書き方というより、生き方、みたいな。表現して人に見せるということは人に関わること、自分以外の人の共感を得るかどうかが問題で、表現欲と自己顕示欲を混同するな、とありました。た、確かに…。表現することは自己への厳しさが伴う。言葉に対して謙虚であること。有名な詩人の詩や一般人の詩を紹介しながら、比喩のこと、イメージを形態化すること、など、けっこう難しい。けど、面白い。「思いは述べない」「何を言うかではなく、どのように表現するか」。
 私もフォト短歌や文章をこうしてブログに載せていますが、そこには表現したい思いがあり、ブログに載せるということは読んで下さる方がいて、そして、それを私自身が望んでいるわけで、単に趣味として自分の楽しみでやっているとは言え、考えさせられています。
 今日も読んで下さりありがとうございます。