モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

「涙とともに見上げるとき」

聴講している「牧会ケア」(今期のテーマはグリーフケア)で参考図書として勧められた本です。哲学、神学などを専門にする大学教諭である著者は山の事故で長男を亡くしている。長男は25歳だった。
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 地上での肉体の終わり。それは、どうすることもできないひとつの終わりである。思い出すことはできても、決して二度と経験することはできないその関係。時間を戻ることは誰にもできない。
・もしだれかが、「あなたはどなたですか。」と尋ねるなら、私は答える。「私は息子を亡くした人間です」と。・なんとも苦しいのはその『決してないこと』である。私たちと一緒にここにいることはもう『二度と決してない』。・我々の肉体が我々そのものというわけではないけれども、我々がこの地上で所有しているもので、肉体以上に分っていうものはないからである。我々は肉体によってのみここに存在している。

 同じ(?似た)経験をしているとしても、そのひとつひとつは同じではない。
 重みの違う話ではありますが、私は妊娠中に切迫早産で二か月ほど入院したことがあります。二人部屋で、ある時期のお隣りさんは子宮筋腫の手術をしたと思われるご婦人でした。カーテン越しに声が聞こえます。家族や友人たちが見舞いに来ます。その友人たち。見事に「自分のことを話す」人ばかりでした。「どう?」と第一声はみなさん仰る。でも、その次は「私の時はね…」「うちの姉もね…」「友達も最近ね…」と。お隣りさんはひたすら見舞客の話を聞いておられて気の毒でした。お見舞いになってないじゃないかと強く思いました。そして、この時のことではないですが、よくあるなぁと思うのは「乗り越えた経験」を話す人。励ましているつもりなのだろうけど。「だから、あなたも乗り越えられるわ」。同じ病名でも、経験は同じじゃないと思う。そもそも、乗り越えないといけないものなのか。乗り越えずに終わっちゃダメなのか。乗り越えたか乗り越えてないかはどっちでも、ただ傍に付き添っていることが大事なのだろう。そういう意味では、似た経験をしているから本当の意味で「わかる」とは限らないと言える。似た経験をしていてもしていなくても、「私には本当にわかることはできない」という気持ちが必要なのだろう。
・一つの死がどれも異なること、そして、それが独自であるがゆえに起こる苦難の孤独のことを。我々は「お気持ちお察しします」と言う。しかし、本当にはわからないのだ。・あなたの言葉が知恵にあふれている必要はない。我々が聞くのは、語られた言葉よりそれを語る心のほうなのだ。・遠く離れたそこでは、あなたは何の助けにもならない。私が聞きたいのは、あなたが私と一緒にいるということである。私を慰めるためには、近くに来なくてはならない。近くに来て、嘆き悲しむためのベンチで私のそばに座ってほしい。

 繰り返される後悔。もっと一緒にあのことをすればよかった。あの時こう言っていればよかった。山に登ることを止めればよかった。
・神と私の間のことは落着した。しかし、エリックと私の間のことはどうなるのだろうか。神に赦されたものの、私に残る後悔をどうしたらいいのか。・そう、私は変わった。間違いなく良いほうに。しかし、エリックが戻ってくるなら、それと引き替えに、その変化を一瞬もためらわず手放すことだろう。

 私が最も心に留ったのは、「傷」です。復活されたイエスさまには十字架で受けた傷がありました。著者は「よみがえりはそれを取り去りはしなかった」「死の束縛を解いた方は、その傷をそのままにしておかれた」と言います。そして、「私には彼(息子)の死の傷がついている。私のよみがえりがその傷を取り去ることはない。それは私の目印である。もしあなたが私が何者であるかを知りたいなら、手をその中に入れなさい。」と。
 私は天国で会うイエスさまに十字架の傷があるかどうかを考えたことがなかった。今は、あるのだと思う。私たちの体がどんな風によみがえるのかはわからないけれど、地上で受けた傷はその人の目印として残されたままによみがえる…のだ。

 著者はどこに辿り着いたのか。苦しむ神、むせび泣く神を知り、よみがえりと天国に希望を持ちながら、「苦しむものに対して、その人の全存在から発する『ノー』」をどうやって持ち続けるのかと問う。最後に、「また会う日まで」という言葉と共に、『だから』、「さようなら」と三回言っている。
どうぞ読んでみて下さい。お勧めです。

 最後に「訳者のあとがき」がありますが、訳者は次男を自死で亡くしています。あとがきは「次男について-訳者あとがきにかえて」となっていて、次男さんの生い立ち、病気のことなどが5ページにわたって綴られています。そこには「後悔」のことも書かれています。息子との間にある後悔をどうしたらいいのか。著者に代弁してもらうことにしたいと本文からの引用を書いています。少し長くなりますが、それを紹介して終わります。

「私は、その後悔をかかえて生きていくことにしよう。自分の後悔を自分の人生の一部として受け入れ、みずから招いた傷の一つに数えるとしよう。しかし、私はいつまでもそれをじっと見つめてばかりいるつもりはない。私はその記憶に呼び覚まされて、いま生きている人たちとより良好な関係を築くようにするだろう。さらに、あの幻がいっそう鮮明になり、あの大いなる日の到来への希望がさらに大きくなるだろう。その日は、我々みんながお互いの腕の中に身を投げ、『ごめんなさい』と言うことができるのだ。愛の神は、きっとそんな日を我々にかなえてくださるだろう。愛にはそれが必要なのだ」

※出版社、書店に在庫はないようです。図書館か古本で探して下さい。