モゴローなんちゃって日記 ~たまにフォト短歌~

日々の生活の中で心にとまったことを伝えます。クリスチャン(プロテスタント)。視能訓練士。

高見順「闘病日記」①

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✿学生時代、先輩に勧められて初めて高見順を読んだ。小説「胸より胸に」。今やあらすじさえ覚えていない有り様だが、ただ、この高見順という人には「悲しみ」が関係していると思った…ことだけは覚えている。
小説は他に2つ読んだだけだったが、大学の図書館にあった「高見順全集」で詩を読むようになった。「詩」なるものをちゃんと読んだことのなかった私には誰とどう比較してということはなかったが、その詩はその後も私の中に残っていた。大学時代、気に入った言葉を書き留めるノートに「胸より胸に」の一節と、詩のいくつかを書き写している。しばらく遠ざかっていたが、30代になってからだろうか、コンパクトにまとめられた詩集を買って、数年に一度、この10年ほどは年に一回は読みたくなって読む。
ちなみに「胸より胸に」は与謝野晶子の短歌の言葉から取ったタイトルで、与謝野晶子の短歌の中で私が最も好きな歌だ(晶子さんの短歌を全部知っているわけではないが)。
高見順と言えば「日記」が有名だが、私は読んだことがなかった。昔の作家は、自分の日記が世に出て人に読まれることがわかりながら書いていたと聞いたことがあるが、高見順はまさしくそうだ。生きている間に「高見順日記」8巻、没後に続編が8巻出版されている。何十年も書き続けたその量は膨大である。
この「闘病日記」は「続 高見順日記」の晩年を編集したもので、タイトルは高見順自身がつけたものではない。食道癌のため入院した1963年10月から死に至る1965年8月までの日記である。


―わが生涯をかえりみると、悲しみをみずからもとめ、悲しみをむしろ楽しんでいたとも思える。一方、悲しみも常に私をおそいつづけた。(日記より)

 

高見順は非嫡出子として生まれる。高見順は「私生子」という言葉を使っている。父親から少しの生活費は送られていたが、生活は貧しく、母親は針仕事をしながら高見順を育てた。父親とは一度も会っていない。このことは高見順を生涯苦しめた。


―私は父(てて)なし子として育ち、片輪の家庭に育ったので、どこか精神的に片輪だということが感じられる。それを片輪でなくそうとして一生かかったとも言える。そんなことがこの頃、心に浮ぶ。


―私は歓迎されない者として生まれたのである。子供の頃、そのことでどのくらい苦しめられ、苦しんだことか。幼時がすでに仕合わせでなかった者には、一生、仕合わせが避けて通るのか。(日記より)


✿しかし、高見順自身、妻とは別の女性との間に子供を持っている。私世代だとタレントとして80年代?テレビによく出ていた高見恭子さんを知っている人もいるだろう。彼女は高見順のただひとりの子供である。高見順は二度結婚している。一度目に結婚した妻には、左翼運動中に子供は持てないと堕胎させている。この妻は高見順が検挙されて拘留中に去り、その後幸せとは言えない生活を送って高見順より早く死を迎えている。


―私は愛子に、すまない気持ちでいる。…彼女の心をすさませたのは私である。(日記より)


✿次の妻秋子さんは最後まで高見順に寄り添った。高見順は日記の中で、秋子さんへの気持ちも書いている。秋子さんは女児を生んでいるが1歳くらいで亡くなっている。その後二人の間に子供はいない。


―私のベッドの横…というか下にと言うか、小さく寝ている妻を見ると、胸が迫った。…こうして病気で、幾度かの病気でさんざ苦労をかけただけではない。元気なときは、放蕩三昧、結婚以来、たえずそれで妻を苦しめた。悪かった、すまなかったと思うと、涙がこみあげてきた。(日記より)


高見順は、自分と同じように私生児として生まれた恭子さんのことも書いている。


―夜、恭子の夢。…涙で眼をさます。


―私自身、私生子の悲しみに苦しめられてきたのに。恭子はこの四月から小学校二年生。そろそろ父の姓と母の姓とがちがうことに、どうしてだろうと疑問を持つにちがいない。…そして私とおなじように自分ではどうすることもできないその「恥」に苦しむにちがいない。恭子のこと、そして妻のことをおもうと、私がガンで苦しむのはあたりまえだという気がしてくる。悪いとわかっていて犯した悪は、もっとも悪質な悪だ。
(日記より)


高見順が恭子さんの存在をどの時点でどうやって妻に知らせたかは、この闘病日記ではわからない。その前の日記には書かれているのだろうか。恭子さんは別に暮らしながら、高見順の家に来たり、高見順の家に出入りする人と遊びに行ったりしている。妻の秋子さんと恭子さんと3人で夜並んで寝たことが書かれている日もある。恭子さんは高見順が亡くなる10日前に秋子さんの養女となり、秋子さんは恭子さんが高校卒業まで経済的に支えた。
恭子さんのお母さんのことはここには書かれていないが、小説には恭子さんのお母さんがモデルとなった人物が登場する作品があるそうだ。
妻を裏切る卑劣な行為。許されることではないし、それによって妻もその女性も子供も、そして自分自身が、皆が苦しんだことだろう。でも、いや、ただ…と思う。高見順が恭子さんのお母さんとどのような付き合いで、どのような関係だったかは知らないが、そこにはたとえ一部分だとしても心があったと思いたいし、あったのではないかと思う。たった一部分だったとしても。


最後高見順自身が日記を書けなくなってからは秋子さんが記録を残しているが、死の2日前に恭子さんはお母さんと病室を訪ねている。その前に訪ねたときには、秋子さんが用意したワンピースを恭子さんが大喜びして高見順に見せたことが記されている。ほとんど眠っている状態の高見順が、恭子さんの声に眼を覚まし、そして恭子さんの姿をじっと見て、「よく似合う。ともて可愛いよ。」と言っている。恭子さんはまだ6歳だった。高見順は、そして秋子さんはどうような気持ちでこの恭子さんを見ていたのか。別室で待っていたと思われる恭子さんのお母さんもどんな気持ちだったのか。
楽しいでもうれしいでも、幸せでもない時間。でも、どうすることもできない皆が、精一杯を精一杯に差し出している時間だったのではないか。それは決して、無かった方が良かった…とは言えないものだったのではないだろうか。