モゴローなんちゃって日記

      フォト短歌、影、心に浮ぶ言葉たち。

「新しい人 新しい言葉」木下裕也

 日本キリスト改革派教会月刊誌「リジョイス」に昨年連載中から、本になったらいいのに…と思っていましたが、本になりました!
 日本の人口に占めるキリスト者の比率からすると、キリスト者詩人の割合はかなり高い(「まえがき」より)のだそうです。ここに12人の詩人が紹介されていますが、その詩人たちが書く詩は、それを読む人がキリスト者であってもなくても、もちろんキリスト者であればなおのこと理解できる、味わえる面はあるはずですが、そういうことでなくとも、人間の存在、生き方、そして言葉の持つ意味において、人の心を揺るがすような力で問いかけ、発しています。実際、日本の詩の世界において第一線で活躍されていた、されている詩人の方々です。この書をきっかけに、私たちの、それぞれの詩人の詩、また他のキリスト者詩人の詩を読む機会が増えることを願います。
 著者の木下裕也牧師(改革派岐阜加納教会)は自ら詩人ですが、ある時期、詩を書かなかったと聞いていました。それはなぜなのか。キリスト者が、とりわけ伝道者が詩を書くというのはどういうことなのか。それは成立するのか。その葛藤と、その中にありながら、詩を書くことを再開した決意のようなものが伝わってきます。信仰と芸術の問題。特に、詩は言葉と直結するものです。
“…聖書は「言葉」であり、文学もまた「言葉」を用いてなされるからです。「キリスト教詩」を考える場合にもこの問題があります。美術や音楽と詩との違いは、詩が言葉を直接の素材とする点にあります。それはそのまま、聖書と詩の接近ということを意味しています。…。人間の言葉である詩は、神の言葉である聖書に及ばない。聖書を有していて、なお詩を有することに意味はあるのか。…。”(本文より)
 「詩作」についても述べられています。詩の目的は読み手にカタルシスをもたらし感動を与えること。詩は言葉による舞踏のようなもので、実用的な目的は果たさないが美しいものであること。思いや感情をそのまま述べるのではなく、比喩が重要であること。
 本当に、詩は比喩の世界なので、聖書もそうであると言えますが、その比喩が一体何を差示しているのか。それがわからなければどうにもならない。…のか。本当にどんぴしゃわからずとも、そこに近づく実感、触れる実感があるのか。詩の解説ほど難しい「解説」はないのではないでしょうか。その詩を書いたその詩人の心を真実に受けとめることができるのか。詩人も、人に読ませる詩を書くのであれば、個別的に迫る事柄を普遍的に響く言葉で書かねばならない。書き手と読み手が繋がった時の美しさ、「美しさ」は本物であるかどうかのひとつの大きな要素であると思います。描かれている事柄は苦しみであっても、作り手と受け手が繋がった時に美しい光が、小さくても輝くかどうかなのだろうと思います。
 最近、ある知人が、その人は専門的に音楽の賜物を持つキリスト者ですが、賛美について「覚悟して賛美する」というようなことを言っていました。多分、音楽を用いての賛美のことだと思いますが、覚悟を持って賛美する。私は、この本とその知人の言葉が関係あるように思いました。
 自分ひとりで、または家族や友人の間で楽しむ分にはその関係性の中で発揮される意味の中でのあり方でいいのだと思います。そこを越えた時のこと。

 芸術については、詩についても、作品を生み出す人と、作品に触れて味わう人、両者があり、自分で作品を生み出すことはできなくてもその美しさに与ることができるのは神さまがくださった素晴らしい恵みだと思います。詩を読むことは非常に少ない私ですが、これからは読んでいきたいと思います。
 表紙の絵は、山村貴司牧師(改革派長丘教会)の「目が開けて」(ルカ24:30)です。これがまた素晴らしい。ぜひ皆さんもお読み下さい。お勧めします。